こんにちは。
私は2019年4月から瀬戸内海の離島、小豆島で暮らしています。夫と子ども2人と横浜から移住してきました。ここでは島暮らしの日々をお届けします。
おとなりの島、豊島
今回は、先日訪れた豊島についてのお話です。
豊島は小豆島のおとなりの島。「てしま」と読みます。
岡山と高松のちょうど間にあり、小豆島からは、小さな旅客船で20分の距離にあります。
人口約800人、車で30分くらいでメインの道路をぐるりと島一周できるくらいの小さな島です。
「豊島で産廃見学ツアーをやってくれるらしいよ。行く?」
ある日、夫から誘われ、「行く行く!」と、子供を連れ、自家用車を船にのせて豊島にわたりました。
どうやら豊島では昔、産廃事件というものがあったらしい、というくらいの知識しかありませんでしたが、小豆島以外の瀬戸内の島にも興味があったので、現地を訪れることでより深く考えるきっかけになったら、という動機がありました。
産廃不法投棄の処分地を訪ねて
豊島に到着したのは秋のあたたかい日でした。黒い牛がのどかに草をはむ牧歌的な風景をみて、ぐるりと島をドライブし、きれいな棚田や海を眺めました。
レモンや塩、豊島の豊かな食を楽しんでから現土庄町議の茂木邦夫さんの案内のもと、県議を二度務められた石井亨さんに、産廃が不法投棄された現場と資料館にて、丁寧に豊島産廃事件の歴史についてお話していただきました。
私の事前の予習はWikipediaのみでした。
1975年頃から、ある事業者が豊島にどんどん産業廃棄物をもちこみ、不法な処理が10年以上にわたっておこなわれたこと。行政も抑止力にはならず、それどころか業者に肩入れするような態度を示し、住民運動は長く苦しい闘いを強いられたこと。
他県からの捜査介入により事業者は逮捕され、投棄は止まったが、そこには90万トンを超える膨大な量の廃棄物が残されたこと。当時、戦後最大級の不法投棄現場だったそうです。
再び住民は立ち上がり、公害調停を申し立て、さらに長い闘いの末に公害調停が成立したこと。44年の歳月を経て、つい最近(2019年)やっと全量の撤去が完了したが、地下水の汚染の浄化作業は2021年の現在においてもまだ続いていること…。
この日の私はこれ以上何も知らずに、案内してくださった石井さんがどういう人であるかも知らずに、産業廃棄物の撤廃がすでに完了した地区で、静かに風が吹くなか、説明を受けました。そして純粋に沸いてきた疑問をその都度質問していました。
ーどうしてそんな不法投棄が長年見逃されたんですか?
ーなぜ、行政はしかるべき対応をしなかったんですか?
ーどうやって住民運動の道筋をつけたんですか?それは誰が導いたんですか?
ーその途方もないゴミの後始末の方法はどうやって考えたんですか?
そのなかでも、話を聞いているうちに沸いた一番の疑問は、
ーなぜ、離島の、普通の暮らしをしていた人々が行政を相手に長年渡り合い、主体となって
倫理的に高いレベルでの解決へと具体的な道筋をつけていけたんですか?
ということでした。
石井さんは、とうとうと豊島の産廃の歴史を語る合間に、私たちの質問に答え、あらゆる文脈における見解と広い視点にたった回答を示してくれました。
その日、石井さんの話をきいたあとに強く心にのこったのは、
人の公共心というものの強さについてと、
その歴史を語る地元のひとの、住民運動を経てたどり着いた境地についてでした。
もしも自分が当時の豊島にいたら…?
資料館では、壁一面に貼られた、事件の経緯を示す年表や当時の写真や新聞の切り抜き記事、
運動に使われたたすきや旗、当時のままに保存された汚染水のサンプル、
実物をはぎとって加工し壁一面に展示した、産業廃棄物そのものがありました。
そこではじめて、実際の被害の大きさや運動に費やされた膨大な労力を目の当たりにしました。
当時、自分が豊島に住んでいて、農業や漁業で生計をたてながら子どもを育てていたとして、この産廃の不法投棄の現場を見たら、何を思ったでしょうか。
違法な野焼きにより毎日のように立ち上る黒煙、喘息の症状が出る子供たち。
ダンプトラックが連日廃棄物の山を積んで轟音をあげて走っていくところや、波打ち際で死んでいる魚の群れを目にしたら「もうここでは暮らせない。行政はなにもしてくれない。解決なんて無理だ」と即座に絶望し、ふるさとを去っていたかもしれません。
いま目の前にいる家族を守る行動は起こせても、その次の世代、島の自然や島の未来に責任を感じて立ち上がるということが、果たしてできたでしょうか。
ましてや、解決までの道のりは途方もなく遠く、島民ひとりひとりの努力を絶えず必要とするものです。
資料館では、入り口に調停にかかわった人々の名前が500名以上張り出されており、その半数以上に亡くなられたことを示すしるしがつけられています。自分の代では解決しないことは承知の上で、時間も財もなげうって闘い続けた豊島の人々。彼らの共通の原動力は「ゴミの島と呼ばれたままでは終わらせない、もとの美しい島を次の世代に」という心であったと思います。
見学を終えて
豊島に行く前に、「これはダークツーリズムだ」と負の遺産に触れることへの覚悟をしていきましたが、不思議と豊島を去ったあとに残ったのは、
『人間はこんな間違いを犯すこともあるが、こんな絶望的な状況のなかで知恵を出し経験をシェアし、仲間を増やしながら、問題を解決させていく力もあるんだ』という想いでした。
エンパワーメント、という言葉が浮かび、「問題に終わりはないが、乗り越える力は普通の人間のなかにある。」と勇気付けられるような感覚がありました。
帰ってきてから、石井さんが書いた「もうゴミの島と言わせない」という著書や弁護士として調停に関わった大川真郎さんの本を読み、一連の流れをより深く知ることになりました。
YouTubeでは、KBS瀬戸内放送による豊島についての動画がたくさんアップされているので、当時の様子や住民運動の様子を映像として見ることができました。よく見るとそこに若かりし頃の石井さんが運動に参加している様子やインタビューがいくつかありました。
当事者としてこの問題にずっと関わり続けて来た方が、豊島を訪れ産廃について知りたいという人々のために、いまも労力をいとわず毎回ひとりひとりに丁寧にことの経緯を説明しているのか・・・ということに心底驚きました。また、住民運動をリーダーとして率いた方々のインタビューを見ると、住民運動の中心になって動いたひとは皆、この件について語る自分自身のことばを持ち、この住民運動の意義や真価、未来についても意見していました。
石井さんが著書のなかで、水俣できいたというおばあちゃんのことばに触れていました。
「一生懸命にやっていると知恵がでてくる。中途半端にやっていると愚痴が出てくるよ」
身の回りで途方もない大問題が起きたとき、その敵が強大な権力であるとき、逃げるのか、立ち向かうのか。「行政がなんとかしてくれ」、「行政がなにもしてくれない」と愚痴を言うだけで諦めるのか。
豊島を訪れたのち、関連書籍や動画を見るうちに、
ここで起きたことは形を変えてどこでも起こっているんだな、最初から住民に解決する力が備わっていたわけではないんだな。外部からの優秀なブレーンががたまたまついて指導したわけでもないし、
ほんとうにひとつひとつ、壁にぶつかってはたち戻り、学び直し、目の前のひとを説得することの積み重ねがここまでの歩みになり実を結んだんだな。という感想を持ちました。
豊島の人々のひとりひとりの「語り」には運動を通して得た知見が凝縮されていて、
それは世界中の人々がいま・将来に直面するあらゆる問題にたいしても価値ある知見として生かされるものだと思います。
学びの島
産業廃棄物のその後の処理は「世界でも類をみない」再利用を前提とした現状回復作業となりました。
全国から集まった科学者が処理方法を検討し、県が事業を実施、そのすべては公開され、
島の人々が監視するという仕組みもあります。
この体制もまた、類をみない先進的なリスクコミュニケーションとして世界中から注目を集めているといいます。
豊島はかつて揶揄された「ゴミの島」であることを自分達の力で乗り越え、
次の世代にとって、世界中の人々にとっての「学びの島」として歩みをすすめています。
私にとっても、おとなりの島・豊島はこれからも学びの島でありつづけると思います。
参考
書籍:
「豊島産業廃棄物不法投棄事件 巨大な壁に挑んだ25年のたたかい」 大川真郎著 日本評論社
「もう「ゴミの島」と言わせない 豊島産廃不法投棄、終わりなき闘い」石井亨著 藤原書店
「未来の森」石井とおる著 農事組合法人てしまむら
動画(YouTube):
KSB瀬戸内放送 産廃の撤去完了 豊島事件の教訓を考える
KSB瀬戸内放送(特集)国内最大級と言われた産廃問題「公害調停成立」から20年を振り返る
岩手県公式チャンネル つなぐ、未来へ(4)(県境産廃)←豊島を教訓として解決策が導き出された例
ウェブサイト:
豊島・島の学校 https://www.teshima-school.jp/
(Q&Aがわかりやすいです。本文中に触れた私の疑問はほとんどここで回答が示されていました)
Wikipedia 豊島事件・産廃不法投棄(豊島(香川県)のWikipediaページの半ばから)
https://ja.m.wikipedia.org/wiki/%E8%B1%8A%E5%B3%B6_(%E9%A6%99%E5%B7%9D%E7%9C%8C)
豊島・処分地の見学について(香川県)
https://www.pref.kagawa.lg.jp/haitai/teshima/kengaku.html
書き手・写真 :
喰代彩 (ほおじろあや)
横浜市出身、善了寺のデイサービス「還る家ともに」で介護士として働いていました。現在は小豆島にIターン移住して三年目、二児を育てながら島の暮らしについて書いています。