善了寺には公式YouTubeがあります。そこには初心者向けのやさしいお話から深淵な仏教の教えまで様々な法話と、ご住職と坊守さん(お寺の奥さん)の日々の一コマを切り抜いた親近感の湧く動画がいくつも公開されています。

善了寺ともに講 公式チャンネル

 

お供えする心を受けとめる心

お仏前にお花をお供えするというのは、仏事の中でも身近な話題ですね。あるYouTube動画の中で、善了寺のご住職がお話されていたことがとても興味深かったので、ここで紹介したいと思います。

「お花をお供えする、ということだけにこだわると、受けとめてくださる方々がいる、ということを忘れてしまいます。お供えする場所があるということは、お花をお供えする気持ちを受けとめてくださる方々がいるということです。受けとめてくださるからこそ、お供えができるのです」

衝撃でした。
当たり前がひっくり返った気がしました。

我が家にはお仏壇がありました。祖母や母が幾度となくお花をお供えし、水を取りかえているのを子どもの頃から見ていました。ですが、そこに理由を考えたことはありませんでした。ただそれが当たり前でした。

けれどお話を伺ってはっとしたのです。子どもの頃から私の目の前にお仏壇があったのに、そこに想いを受けとめてくださる方々を想像したことがなかったからです。
大正生まれの祖母は芯の強い人でした。お仏壇に毎日手を合わせ、阿弥陀様やご先祖様に受けとめてもらいながら、自分の心を整えていたんだなと思いました。

 

受けとめてもらえることの有難さ

デイサービスで知り合ったSさんは、おじいちゃんが生きている時よく愚痴をこぼしていました。「いつも家では私ばっかりしゃべっているのよ。あの人は人の話を聞いてないの。ご飯を作っても何も言わないで食べてるし、張り合いがないのよ」と。
でも、おじいちゃんが亡くなったら、Sさんは急に元気がなくなってしまいました。おじいちゃんの世話を焼くのがSさんの生きがいだったのです。パワフルなSさんを文句も言わずに受けとめてくれていたおじいちゃん。話を聞いて、ご飯を食べて、お世話を焼かれるのがおじいちゃんの大きなお役目だったんだと思います。一方通行のようで、本当は一方通行じゃなかったんですね。

食べてくれる人がいるから料理ができる。世話を受け入れてくれる人がいるから世話を焼ける。主婦をしていると「私ばっかり家事をやらされている」とついつい思ってしまいます。でも違うんですね。

 

浄土真宗Q&A

ご住職が引用されていたお花をお供えするお話。原典の「仏事Q&A 浄土真宗」では、以下のようにまとめられています。善了寺ともに講では、本文中のキーワードを紐解いてくださるので一人で読むより理解が深まります。

「仏前にはどのようなお花をお供えしたらよいのですか?」
仏前に花を供えて荘厳(しょうごん:美しく厳かに飾ること)することを供華(くげ)といいます。供華は、花瓶に行います。花瓶には、季節に応じた生花を立てて供えます。ただし、バラのような刺のある花や毒のある花は使用しません。また造花や鉢植えの花も用いません。供華は、常に水の入れ替えをしたり、枯れないうちに新しい花と差しかえたりすることを忘れないように心がけましょう。
生花は、季節を感じ、いのちを実感させてくれます。私たちは花を通して、いのちの尊さやはかなさを知らされます。しかし、私たちはいのちに限りがあると知っていても、その通り受け入れることは容易ではありません。そのため、阿弥陀如来は、すでに私たちのありようを見抜かれ、南無阿弥陀仏となって、すべてのいのちを分け隔てなく慈しまれています。供華は、このようなはたらきを私たちに示しています。ですから、花の向きは、ご本尊の方ではなく、私たちの方に向け、阿弥陀如来のお心をいただくのです。

 

出典
「仏事Q&A 浄土真宗本願寺派」 前田壽雄 国書刊行会 2014

善了寺ともに講公式チャンネル https://www.youtube.com/@tomonikou

 

寄稿者 ほりえりえこ
湘南在住。小学生の娘と暮らしてます。今を大切に。日々のなぜ、なに、どうしてを大切に。心が動いたこと、子どもに伝えたいことを書いています。