5月も下旬になりましたが、コロナ禍の中、心からお見舞い申し上げます。
毎年5月は、16日に毎月お勤めする親鸞聖人月命日法要があり、続いて、21日には親鸞聖人のお誕生をお祝いする「親鸞聖人降誕会(ごうたんえ)」という法要を営みます。
御命日と降誕会、5月は、死と生をバラバラではなく、人生のあり方としてつながりの中で考える尊いご縁です。
親鸞聖人の時代も、災害などで社会の枠組みが壊れ、「何しに生まれ来たのか」「どこへ行こうとしているのか」が問われる時代でした。その時代に、親鸞聖人は、大いなる御手にみちびかれ、法然さまや同朋のお念仏をお聞かせ頂き、南無阿弥陀仏とお念仏を称え、力強く生ききってゆかれました。
今日、このような時だからこそ、正解を求めて不安にあおられるのではなく、立ち止まって、問い直すご縁を大事にしたいと思います。
社会のあり方を、学校の大きなプールに例えましょう。同じ学年の幾つかのクラスみんなで、時計回りなど同じ方向に向かって、歩いて行くと、知らないあいだに流れができてきますよね。そんな体験したことはありませんか?面白がって30人~40人くらいで回っていると、一人だけ振り向いて逆走しようとしたり、立ち止まろうとしても、流れに逆らえなくなってしまいます。
この現象を、社会として捉えたら、結構笑い事ではないのかもしれません。ひとり、一人は、小さな力でも、大きな流れをつくってしまった時に、止まろうと思っても止まれなくなってしまう・・・。そんな時は、私たちは、「何しに生まれてきたのか」という問いを起こすことそのものが、流されてしまいます。ある意味考えなくてもよかった。
しかし、その流れが止まるときがあります。予想もしなかった出来事で、プールの枠組みが壊れた時です。その時に、大きな不安に襲われます。問題は起きているのに、正解がわからない。
私たちの先人は何度も、そんな経験を繰り返してこられました。鎌倉時代を生き抜かれた親鸞聖人も、天変地異と飢饉と疫病、そして社会の大きな変化として武家社会の誕生がありました。
あらゆる人々が、「何しにこの世に生まれてきたのだろう」そして、「どこに行くのだろう」と、安心して問い、学びつづけて行けるご縁こそ仏事の尊い意味合いでした。
コロナ禍の最中にあるからこそ、問い、学びつづけていくことを大切にしたいと思います。お身体どうぞご自愛ください。手洗い・うがいは、100年前のスペイン風邪の時から、大事にされていた対策でした。
戸塚・善了寺 住職