お釈迦様のおたとえに「月指のたとえ」と言うお話しがあります。

言葉ずらにとらわれているのは「月を指して、月をおしえてくれているのに、指ばかりみて月を見ないようなものだ」と言うのです。言葉ずらにとらわれないで言葉が運んでくれる想いや願いに心を寄せてゆく大切さを、教えてくださっています。

 

お参りの際、私たちは、どこに向かって手を合わせているのでしょうか。ともすると、願いを叶えていただこうと、お参りしている自分の都合ばかりにとらわれていないでしょうか。み仏は、そんな私を優しく照らし、慈しみと育みの光をもって、み仏のはたらきに気づかせてくだいさいます。

向きが定まるということは、今が照らし出されて行く事とひとつです。是非、お寺にお参り下さい。

 

「朝のおつとめ」は、365日行なっています。
1日の始まりを、善了寺でのお参りからはじめてみませんか。
どなた様でもお参りいただけます。
どうぞお気軽にお越しください。