- 住職のつぶやき
- 2019年9月30日
「旅」は「わざわざ」するもの?
先日、「ぶらり途中下車の旅」で、善了寺と境内にある「カフェゆっくり堂」を紹介していただきました。その後、テレビの反響は、大きくて、何と先日は、栃木県からお参りにこられました。
何気なく、ご本堂に座っておられたので、いつもの様にお声がけすると「テレビを見た母にすすめられて、お参りに来ました」というのです。
私は「わざわざ」お参りして下さったと思い恐縮してしまったのですが、良く話をきいいてみると「ぜひお参りしたかったので、来られて良かったです」と、特別な事ではないといった雰囲気でお話してくださいました。
栃木県から横浜市戸塚です。ちょっとした旅行ですよね。私は、ちょっと遠いところに行くだけでも、「わざわざ行く」という感じになってしまいがちなんです。この違いは、なんだろうと考えると「この旅を自分が楽しんでいるかどうか」だと思いました。
それこそ、「ぶらり」でも「途中下車」でも、「旅」でも、楽しんでいることがとっても大事だとおもいます。「わざわざする」ではなく、「することを楽しむ」という、当たり前の事ですが、今、この当たり前を大切にしたいと思います。
あまりにも、日常と非日常を分け過ぎてしまい、圧倒的に多くの時間を過ごしている日常を楽しむ事を忘れていなかったかと思いました。
栃木から戸塚にお参りに来たのも、尊い暮らしのひとコマでした。「わざわざ」という言葉は、相手にして対する敬いの言葉、労いの言葉であって、自分に使うと不遜は態度になってしまいます。気を付けないといけないと思いました。
暮らしを大切にするお寺まいりを、是非たのしんで頂ければとおもいます。おまちしております。