- 住職のつぶやき
- 2019年7月21日
映画と俳句と法友と
先日久しぶりに、映画館に行きました。自分の意思で行きましたというより、引き寄せられたという感じでした。たまにそんなことってありませんか。スポーツでも趣味でも……。あっ、季節柄、怪談話ということではありませんよ。笑
観た映画は『ずぶぬれて犬ころ』。住宅顕信という自由律俳人の生涯が、顕信さんの俳句に出遇ったことがキッカケて変わっていく少年の姿とともに、描かれています。映画のタイトルは顕信さんの作品から取られたものです。
『ずぶぬれて犬ころ』ホームページ
http://www.zubuinu.com/
映画を観終わった帰り道、「顕信さんの句に出遇ったのは、法友(「ほうゆう」浄土真宗の繋がりの友人です)からの入院の知らせ」が、きっかけだったことを思い出しました。
「映画」と「俳句」と「法友」と、一見バラバラのように見える事柄が、ふとした瞬間につながって、私の人生の中に現れてくる。時間は計られるものではなく、過去も現在も未来も包み込んで、ゆっくりと熟されていくものに変わっていくのではないか、とも感じられました。
金子大栄先生の言葉との出遭い
そして、この文章を描いていると、また素敵な文章が、ふと現れてくれてくださいました。金子大栄先生の言葉をゆっくり味わってみてください。文語調ですが、あわてないで是非そのまま出遇っていただきたいです。
月夜、遠方の友を思ふ。われ月光となりて友を音訪へるのである。華を贈りて病者を見舞ふ。われ花となりて病床を慰問せるのである。情至れば形ある身もなほこの自在の業を為すことができる。まして永遠の真実と一味ともならば、何事か思ひのままならぬものがあらう。われは万象となりて神通を現はし、万象はわれとなりて妙法を説くに碍りはないのである。
花びらは散っても花は散らない。形は滅びても人は死なぬ。永遠は現在の深みにありて未来に輝き、常住は生死の彼岸にありて生死を照らす光となる。その永遠の光を感ずるものはただ念仏である。
(金子大榮 「歎異抄領解」 『金子大榮選集 第十五巻』 34頁 在家仏教協会 1956年)
時間も空間も超えて、一見バラバラな事柄が、私の人生で熟されて、尊い瞬間として立ち現れてくる。私たちは決して、孤立した時間を生きているのではありません。