- 住職のつぶやき
- 2019年3月7日
日々の暮らしのなかで、信じるもの
戸塚・善了寺では毎朝「朝のおつとめ」を、本堂で行なっています。「朝のおつとめ」では、住職から仏教に関するお話をさせていただいています。その時のお話を、ご紹介させていただきます。
毎月11日は、聖徳太子さまのご命日になります。聖徳太子様は、日本にお念仏のみ教えをお伝えくださった大切な方ですと、親鸞様が大切にされました。
私は、日々の暮しの中に何を信じて生きていけばいいのかという事は、とても、大事な問題ではないかと思います。
「僕を信じてください。」と言われると、感動的な言葉のように聞こえますが、「僕を信じてついてきなさい。」と言われたときに、その信じてついてきなさいの後ろに上から目線で暴力があったり、不安や心配をあおりながらこういうことができないと悪いことが起きますよ、ということで信じれるのか、という事です。
何を信じて生きていけばいいのかという問いに応えてくれるのであろうか?という事を大事に考えていきたいです。
阿弥陀如来様は、暴力を背景にすることなく、平等の慈悲を根本におきながら、どうか、共々にこの人生を乗り切っていこう。
信じるものを探し求める私たちによりどころを与えてくださる。阿弥陀如来様は、自らが苦悩の私のよりどころとなる願いを成就された仏様です。
憲法十七条の第十条を、聖徳太子が残してくださっています。
「心の中の憤りを失くし、憤りを表情に出さぬようにし、他の人が自分と異なった事をしても、怒ってはならない。人には、それぞれに、考えがありそれぞれに自分がこれだと思うことがある。相手が、これこそと、言っても自分は、よくないと思うし、自分がこれこそと思っても、相手は、よくないとする。自分は、必ず、聖人で、相手が必ず、愚か者だというわけではない。皆ともに愚かな人間なのだ。そもそもこれが、良いとか良くないとか誰が定めうるのだろう。お互い、だれも賢くもあり、愚かでもある。それは、耳かざりの輪に、端がないようなものだ。こういうわけで、相手が憤っていたら、むしろ、自分に間違いがあるのではないかとおそれなさい。自分ではこれだと思っても、みんなの意見に従って行動しなさい。」
暴力が背景にあってこれを聞くと、自分の意見を押さえて、みんなに迎合しなさいという事になりますが、そうではありません。よりどころが大事です。
平等の慈悲をよりどころとし、共々に歩んでいこうと語りかけてくださる仲間と共にこの世を生き切ってゆくのだと、聖徳太子様が大事にお伝えをくださいました。
それを第二条には、「厚く仏教を信奉しなさい。三つの宝とは、仏様と仏教の教え、そして僧(仏教をよりどころとする人々の集まりのこと)。それは、命あるものの最後のよりどころであり、すべての国の究極の規範であり、どんな世の中でもいかなる人でも、この法理を尊ばないことがあろうか。人は、はなはだしく悪いものは少ない。よく教えるならば正道にしたがうものだ。ただ、それには仏の教えをよりどころにしなければ、何によってまがった心をただせるだろうか。」と述べられています。
阿弥陀如来の平等の慈悲をよりどころにするからこそ恵まれる、苦を超える道があると聖徳太子さまがおすすめくださいます。
私は、このように味わわせていただきました。
「朝のおつとめ」は、365日行なっています。
1日の始まりを、善了寺でのお参りからはじめてみませんか。
どなた様でもお参りいただけます。
どうぞお気軽にお越しください。
文:
横浜・戸塚
善了寺 坊守(※)
※「ぼうもり」と読みます。住職の連れあいです。
鎌倉時代から大切にされてきた言葉なんですよ。
時々つぶやきますので、優しくお付き合いください。