- 住職のつぶやき
- 2019年1月15日
「信じること」と「疑うこと」
戸塚・善了寺では毎朝「朝のおつとめ」を、本堂で行なっています。その際に、住職から仏教に関するお話をさせていただいています。その時のお話を、ご紹介させていただきます。
本願力回向のみ教えが浄土真宗の教えです。それは、救いの起点は常に阿弥陀如来の真実の智慧と慈悲のはたらきから始まるということです。
わたしを中心とした価値判断が、起点になって始まると、常にその始まりのところ、前提が問われていきます。
「世間で言っていることを、自分を、本当に信じてよかったのだろうか」苦悩の現実から救われたいのに、苦悩の現実を生み出している現実を信じるしかないのであれば、その「信じること」は、また苦悩を生み出してしまいます。迷いの輪廻から抜け出ることができません。
「疑うこと」ばかりでは、苦悩を解決することはできず、また、世間の価値観や自分の経験をもとに、「信じること」をつくりあげても、最後には自己責任を突きつけられていく苦悩に突き当たります。
この迷いから抜け出す道はないのでしょうか?「信じる」ことと「疑う」ことをともに見失ってしまうことで、「考えることを止め」「時代に流される」こと以外に選択肢はないかのような世間は、虚無であり、無明長夜そのものではありませんか。
しかし、今ここに苦悩の現実を自らのこととして受け止め、苦を超える道として、本願力回向による真実信心が恵まれています。
親鸞様のお言葉『顕浄土真実教行証文類』の総序には、こうあります。
「煩悩に汚れた世界を捨てて清らかなさとりの世界を願いながら、行に迷い、信に惑い、心が暗く知るところが少なく、罪が重くさわりが多いものは、とりわけ釈尊のお勧めを仰ぎ、必ずこのもっともすぐれたまことの道に帰して、ひとえにこの行につかえ、ただこの信を尊ぶがよい。」(『顕浄土真実教行証文類』現代語版 4頁 本願寺出版社 刊)
阿弥陀如来の至心信楽の本願は『無量寿経』第十八願文であると親鸞聖人がお示しくださいました。
「わたしが仏になったとき、あらゆる人々が、まことの心で(至心)信じ喜び(信楽)、わたしの国生まれると思って(欲生)、たとえ十声念仏して(乃至十念)、もし生まれることができないようなら、わたしは決してさとりを開くまい。ただし、五逆の罪を犯したり、正しい法を謗るものはだけは除かれる」(『顕浄土真実教行証文類』現代語版 161頁 本願寺出版 刊)
他力回向の信心は、決して賭けではありません。
私の煩悩を、そして、苦悩の煩悩濁世を自らの働く場として、現れてくださった阿弥陀如来と共に、世間の価値観として生まれる「信ずること」と「疑うこと」と向きあい人間の基盤、社会の基盤を捉え、超えていく、起点に樹(た)たせて頂くことなのです。
このように、私は、味わわせて、いただきました。
南無阿弥陀仏
「朝のおつとめ」は、365日行なっています。
1日の始まりを、善了寺でのお参りからはじめてみませんか。
どなた様でもお参りいただけます。
どうぞお気軽にお越しください。
文:坊守
※「ぼうもり」と読みます。住職の連れあいです。
鎌倉時代から大切にされてきた言葉なんですよ。
時々つぶやきますので、優しくお付き合いください。