- 住職のつぶやき
- 2018年12月10日
「念仏をよりどころに信じる」とは?
戸塚・善了寺では毎朝「朝のおつとめ」を、本堂で行なっています。その際に、住職から仏教に関するお話をさせていただいています。その時のお話を、ご紹介させていただきます。
浄土真宗の要になるのは、他力の信心です。信じることと真向かいになってゆく。私たちは、「信じる」というと、わかったような気になってしまう。信じるとはどういうことか?
それは、疑うということと真向かいになってゆく。ということです。蓮如上人様も「心得たと思うは心得ぬなり。心得ぬというは心得たなり。」とお示しいただきました。
私たちは、自分の計らいや理解、世俗の中の様々な価値観を持って、「信じること」と「疑うこと」を考えますが、その価値観によって、日常の煩悩のあらしの中で、木の葉が大海の中に迷うように苦悩を抱えていくのが我々です。
だからこそ、「南無阿弥陀仏 南無阿弥陀仏」
阿弥陀如来様の仰せを仰せのままに頂いて、阿弥陀如来様の大悲と智慧をよりどころに、「信じること」と「疑うこと」と真向かいになっていくという道がありますよ。と。
念仏の道を親鸞様がお示しくださり、蓮如様がお勧めくださるのです。
念仏をよりどころにただいてゆくということは、弥陀の仰せを仰せのままにおきかせおいただくこと。それは、煩悩と向き合うということと一つになっています。
当たり前のように信じる事と疑う事を勝手に決めつけない。念仏をよりどころに、本当に信じるとはどういうことだったかなと、見つめてみたいものです。
どこかで、思い込みになっていなかったか?思い込まされていなかっただろうか?
何が苦悩を巻き起こしているのだろうか、ということにちゃんと光が照らされて、わが身の上に苦を超えていく道が示されてくる。
それが、他力の信心をいただいて、弥陀の仰せを仰せのままに頂いてゆくということ。煩悩に隔てをつくらない。煩悩にさえぎられないという、阿弥陀如来様の大慈悲と智慧の世界が、今ここに開かれてくるという事と一つになってゆく事なのです。
私の日々の苦悩を超えてゆくよりどころは、南無阿弥陀仏です。
今、念仏に遇わせていただいている私たちの人生は、むなしく過ぎるものは一つもありません。なぜなら、この世の全ての事象に阿弥陀如来様の光が至り届いているからです。ということは、全ての事象が私を、念仏に勧めてくださる、様々な導きになっている。
ですから今、ここで、本願力に遇うということは、むなしい人生を歩んでいくという事ではありません。
そしてその功徳は、南無阿弥陀仏と、お念仏をいただいていく時、南無阿弥陀仏となりて、この罪深き煩悩多き私の上に満ち満ちているという事です。
「朝のおつとめ」は、365日行なっています。
1日の始まりを、善了寺でのお参りからはじめてみませんか。
どなた様でもお参りいただけます。
どうぞお気軽にお越しください。
文:坊守
※「ぼうもり」と読みます。住職の連れあいです。
鎌倉時代から大切にされてきた言葉なんですよ。
時々つぶやきますので、優しくお付き合いください。