- 住職のつぶやき
- 2018年11月27日
「疑い心」と「真の慶び」
戸塚・善了寺では毎朝「朝のおつとめ」を、本堂で行なっています。その際に、住職から仏教に関するお話をさせていただいています。その時のお話を、ご紹介させていただきます。
親鸞聖人は、阿弥陀如来様のご本願のすくいに、疑いない心が、つねに絶えることなく続く(憶念)と、いただいておられますが、いつもいつも、阿弥陀如来様のことをおもって(記憶)いなければならない、いつもいつも忘れてはいけないと思ってしまうのは、自分をよりどころにし、納得させるようにしかご本願にであってないからです。
煩悩が、それほど強いのです。しかし、強ければ強いほど、阿弥陀如来様の大悲は、決して見捨てることなく、煩悩の闇を打ち破り私どもに至り届いてくださっているのです。
煩悩が吹きあふれてきて、なかなか慶びの心が常に出てこないのが私ですが、阿弥陀如来さまのお救いのままに、そのまま、おまかせすれば、阿弥陀如来のはたらきだからこそ、煩悩に振り回されている私の真っただ中に、本願に出遇えた慶びの心が恵まれ、阿弥陀如来様の真実信心だからこそ、つねに、絶えることなく続いてくださるということです。
罪さわり多き者の上にこそ、「お浄土に必ずまいらせていただきます」と、弥陀の大慈悲に抱かれて、多くの諸仏・諸菩薩とともに、そして、多くの先人方と共に一日一日を歩んでいるのですよと、太陽が雲に覆われても、雲の下は明るさを持っているのと同じように、弥陀の大慈悲は、いつでもどこでも私たちを照らし至り届いていますとお聞かせいただく身にお育ていただきました。
罪深きものと思えば思うほど、煩悩が深ければ深いと思うほど、もったいなくも、「この私が南無阿弥陀仏と念仏を申している事実」今ここを大事にさせていただきましょう。
罪さわり多き私が、お朝じに参らせていただき、念仏が届いていることも事実です。もったいなくも、その身にお育てをいただいている。
疑い心を打ち破り、浄土に参る慶びを、真の慶びと味わわせていただくのです。
私たちは、そのような身にお育ていただき、もったいなくも、お念仏を申させていただくことができる。
弥陀の大慈悲とともにある私どもでございます。
「朝のおつとめ」は、365日行なっています。
1日の始まりを、善了寺でのお参りからはじめてみませんか。
どなた様でもお参りいただけます。
どうぞお気軽にお越しください。
文:坊守
※「ぼうもり」と読みます。住職の連れあいです。
鎌倉時代から大切にされてきた言葉なんですよ。
時々つぶやきますので、優しくお付き合いください。