- 住職のつぶやき
- 2018年9月22日
『仏説大無量寿経』という経典のお話
戸塚・善了寺では毎朝「朝のおつとめ」を、本堂で行なっています。
その際に、住職から仏教に関するお話をさせていただいています。
その時のお話を、ご紹介させていただきます。
浄土真宗の大切な経典である『仏説大無量寿経』は、あみださまが、大慈悲のはたらきをもって私どもに念仏せしめ、信じせしめ、あみださまの大慈悲をよりどころとして生きる道を開いてくださるみ教えです。
ここが『仏説大無量寿経』の大切な他力本願の世界です。「私が、自分の力で理解をし、自分の価値観の中におさめてしまうようなみ教えではなかった」ということを、大事にいただいて参りたいことです。
念仏に出遇うとき、常に我が身が照らされる。我が身が、問い直される。自分が正しいと思っていたことそのものが、実は、限りある正しさであった。自らの価値観の中で作り上げた罪は、あみださまの大慈悲に照らされたときに、もっと広く悪人という世界が開かれ、常に我が身の人生が照らされ、我が身の姿が転ぜられて、ひとつひとつ開かれてゆく。
なぜ、他力でなければならなかったのか?あみださまの大慈悲に背を向けて歩むものを、救わずにおれない、決して見捨てない、という大慈悲の他力の信心がとかれているのが『仏説大無量寿経』です。
それを基本として『仏説観無量寿経』では、王舎城の悲劇の話に、様々な登場される方々のお姿を示されることで、私たちに実際の生活の中に、念仏が生きていますと示してくれます。
だれを目当てとして念仏が、とかれているかといえば、煩悩に身を焦がし様々な苦悩をかかえる我が身を救うために『なもあみだぶつ』と念仏となってあらわれてくださったのです。
生活の中で念仏を申しましょう。となえるお念仏そのものが、あみださまの大慈悲そのものだったというみ教えを『仏説観無量寿経』の中におときになるのです。
最後に『仏説阿弥陀経』は、『仏説大無量寿経』と、『仏説観無量寿経』のお示しが、間違っていないことを、諸仏・諸菩薩が、私たちに道を開き、念仏の道をともに歩まんと、すすめてくださっていると、おときくださっています。
私どもの毎日のおあさじの中にこれらの心が、いつも流れているということを、大切にさせていただきましょう。
あみださまの大慈悲の、み言葉をいただいたとき、大慈悲の中に抱かれた一日です。どうぞ、また、ともどもにお念仏を申させていただきながら、今日一日を大切に味あわせていただき、一歩一歩、歩ませていただきましょう。
このように、私は、味あわせていただきました。
「朝のおつとめ」は、365日行なっています。
1日の始まりを、善了寺でのお参りからはじめてみませんか。
どなた様でもお参りいただけます。
どうぞお気軽にお越しください。
文:坊守
※「ぼうもり」と読みます。住職の連れあいです。
鎌倉時代から大切にされてきた言葉なんですよ。
時々つぶやきますので、優しくお付き合いください。