昨夜、高橋源一郎さんと辻信一さんの対談が、善了寺聞思堂で行われました。カフェゆっくり堂がプレオープンしている中で、直前のお知らせにも関わらず大勢の参加者に満堂でした。住職がちょっと感じたことをつらつら書いてみたいと思います。

お二人のトークは、「雑」というキーワードから、様々な展開をみせ、会場であるお寺そのものが、「雑」な場所であることを気づかせてくれる素敵なトークでした。お寺は、「雑」な場所だった・・・。何か「雑」という言葉からはあまり素敵なイメージが感じられませんが、それは、私が、自分の思考の枠組みで「整理できるもの」を意味あることとし、枠組みをはみ出してしまう「雑なもの」を意味がないものと決めつけてしまう思考の態度から生まれてくるのだと思いました。

「雑」を考えることは、自分の思考の枠組み、そして、自分自身を問うことであり、不合理と向き合うことでした。私たちにとって、不合理なことは不安と恐れを煽るのではないでしょうか。特に、自分の都合によって整理できない生老病死の問題に向き合うことは大変なことです。お寺は、そこと向き合い受け止める場所でした。まさに、お寺は、「雑」な場所だった・・・。一人ひとりの人生があるように、一人ひとりに様々な生老病死があります。だからこそ、決めつけない、決めつけられない救いの場が必要なのだと思います。救いとは、堂々巡りを繰り返す私の思考の枠組みから、抜け出し、「雑」を受け止めてくれる場に巡り遇うことではないでしょうか。

聞思堂は、「南無阿弥陀仏」の六字の名号を、ご本尊としたお堂です。お堂の文化は、人々を繋ぐ縁側の役割を果たし、また、集落の「境」に建つことによって、初めての訪問者にとって「境」を超えてゆくきっかけを作る場でもありました。善了寺では、ちょうど参道の横、本堂の手前に建っています(実は戸塚・善了寺の本堂への参道は公道になっていて、墓地の中を抜けて、住宅街に抜けられるようになっています)。公道に面しているので、大きな道からは外れますが、お堂のあり方としては大切な場所に建っているのです。それは、「雑」を受け止めていく切っ掛けの場所でもありました。

この7月からカフェゆっくり堂がプレオープンしています。コーヒーもスイーツもみなさんをお迎えする大切なご縁だと思っています。だからこそ、身体にやさしくホッとできるものをご用意しています。「雑」を受け止める場だからこそ、そこで出会っていただくコーヒーは、森林農法で育てたコーヒーです。多様な生命の集う森林の中でゆっくり育てられたコーヒーが、私たちに「雑」を受け止めていくご縁をつくってくれます。

まだまだ、素敵な示唆に富んだトークでした。ゆっくりブレンドのコーヒーを味わうようにゆっくり味わって書いてみたいと思います。