- 人・暮らし
- 2017年3月21日
混浴が当たり前、江戸時代の銭湯は実におおらか!
熱い湯船につかると心も身体も芯から温まり、一日の疲れが吹き飛びます。国民性ともいえるお風呂が好きなライフスタイルは、実は江戸時代から始まっていました。もちろん当時は各家庭にお風呂はありません。庶民は町の銭湯を利用していました。今とは違うお風呂事情をのぞいてみましょう。
江戸で銭湯が流行ったわけ
江戸の銭湯は、家康が江戸に入った翌年、早くも天正19(1591)年に始まりました。銭湯の第一号は、江戸城内(現在の大手町付近)につくられたという記録が残っています。
江戸は風が強くホコリがひどかったため、毎日入浴することを好む人が多かったのですが、屋敷内に風呂があったのは武家など一握りに過ぎません。水が貴重だったことや薪代が高かったことに加え、火事の心配もあり、たとえ羽振りのいい商人でも自宅に風呂を持てなかったのです。
そのため、商人も町人も多くの人はみな、近所の銭湯に出かけるのが常でした。
おおらかだった江戸のお風呂事情
今の感覚からすると、江戸の銭湯でいちばんの驚きは男女混浴だったことでしょう。
江戸初期には、客の髪すきをしたり背中を流したりする、「湯女(ゆな)」と呼ばれる女性を置く湯女風呂があり、一時は200軒以上にまで増えたそう。
湯女のサービスはときに髪すきだけにとどまらず、さすがに風紀の乱れもあったようで、明暦3(1657)年、湯女風呂は禁止されました。それでも混浴自体はなくならず、あいかわらず風紀の改善は見られなかったとか。
ようやく寛政3(1791)年になって混浴も禁止され、男湯と女湯の区別が厳しくなりました。江戸初の銭湯の誕生以来、実に200年にもわたって混浴が続いていたとは、ずいぶんとおおらかな時代だったといえそうです。
肩までお湯に浸かるのは贅沢!?
銭湯の仕組みを見てみましょう。入り口を入ると番台に座った主人に湯銭を払って入浴するところなど、現代と似ている部分もありました。
今と大きく違うのは、当初は肩までお湯に入る習慣はなく、蒸し風呂だったことです。水が貴重だったためかもしれません。蒸し風呂の一種「戸棚風呂」は、浴槽の底に下半身がぎりぎり浸る程度に浅くお湯を入れ、上半身は湯気で蒸す仕組み。せっかくの湯気がもれるのを防ぐため、浴槽への出入り口には天井から仕切り板が下がっていて、客は腰をかがめて出入りしていました。快適にお風呂を楽しむ工夫が凝らされていたのです。
ひと風呂浴びた後のお楽しみ
男風呂の二階には座敷があり、入浴後はここでくつろぐのも楽しみの一つ。碁や将棋、火鉢や煙草盆なども置いてあり、休憩しながら顔見知りと世間話に花を咲かせるなど、社交の場にもなっていたようです。身分がはっきりしていた江戸にあって、その違いを超えて人々が交流できる貴重な機会だったのかもしれません。
今のように各家庭にお風呂があることが当たり前になると、便利なことは確かです。でも、こうした交流の機会を持ちにくいのは少し残念なことです。銭湯の数も減り続け、都内に限ってみると、この20年で半分以下に激減しています。江戸から連綿と続いた銭湯文化が途絶えてしまうのはもったいないですね。
銭湯文化を見直そう
混浴が当たり前だった江戸時代の銭湯。そこから少しずつ変化を遂げて、今の私たちがお風呂でくつろぐライフスタイルが生まれてきました。湯船に浸かって心底ホッとするのは、江戸時代からのDNAなのかもしれません。
いまは家風呂が当たり前で銭湯の数もめっきり減ってしまいましたが、たまには近所の銭湯に出かけてはどうでしょう? 意外な交流が生まれるかもしれません。
参考:
- 『図説江戸(3)町屋と町人の暮らし』平井聖監修、学研
- 東京銭湯