12月9日(金)に行なわれた『ザッツ(雑)イット』高橋源一郎×辻信一 ~ポスト7・26トークセッションシリーズ~」のレポートをお送りします。

今回は、「弱さ」の研究を経て、現在は「雑」の研究に取り組まれているお二人のトークセッションとなりました。

「雑」について

辞書によると、「雑」とは、「いろいろなものが入り混じっていること。区別しにくい事柄を集めたもの。」

この世の中は「雑」で出来ている。いろいろなものが入り混じっている。それなのに、政治的に、社会的に、それぞれの都合で「雑」を消去し、ものごとを単純化しようとするのが今の現実。単純化して結論を出そうとする。
例えば、ある地域で紛争など何か問題が起きたとする。その場所にはその場所の歴史があり、風土がある。そこで起きた問題を、それらの背景(雑)を外して見ても本当に理解することは出来ないだろう。

7・26の相模原の事件と「生きる意味」

相模原での事件の報道では、亡くなった方々は個人としては扱われず、匿名で「障がい者」として一括りに扱われた。

犯人の思想は、「障がい者」は役に立たない。「役に立たない」から生きている意味がない、と。ある意味社会が還元された言葉なのではないか。

「意味がある」「意味がない」を、社会のシステムに寄っているか、寄っていないかで判断しているのでは?

「生きる意味」について、働けなくなったら生きる意味がない、受験に落ちたら意味がない、と思ってしまっていないだろうか?

13年間うつと認知症のお母さんを介護されていたあるかた。
お母さんがそういう状態になって50年ぶりに母の手を握ったとき、大きな自己肯定感に包まれ、「生きていてよかった」と思ったそう。お母さんも「生きてくれていてよかった」と。自分はお母さんの手を握りしめるために生きていた、と。

「生きる意味」「生きる価値」があるとかないとか、「役にたつ」「役に立たない」とかの判断ではなくて、日々の生活を、誰かとの関わりを、大切に感じていくこと、それが生きることなんじゃないかなと、このお話を聴いて改めて感じました。

ガンジーの言葉にもあるそうです。
政治や経済、大改革を叫ぶよりも、その日のごはんを感謝していただくこと、目の前のゴミを拾うこと、がどんなに大切かと。

最近「介護離職」が増えているそう。家族が要介護状態になって、どうしていいかわからず会社を辞めて抱え込んでしまう。

一番大事なのは自分。そうじゃないと、自分がいい状態でないと共倒れになる。
自分がいい状態で、そのうえで出来ることをする。現実はすごく複雑なんだから「大体でいいじゃない」と高橋さん。

よそいきの自分だけでは続かない。自分を肯定し、出来ること、やれること、やりたいことをやっていけば変わっていく。システムに取り込まれないように。

「雑」は無限。「生物多様性」というけれど、「雑」はそれを超えて完全な調和を作り出している、と辻さん。
「雑」は降りていく生き方。正しい/正しくない、ではない生き方。
「雑」は自由。外から見たらバカに見えるかも。
楽しいのか?素晴らしいのか?と問いかけながら「雑」を生きよう。

今回のカフェメニューは……

この日のカフェメニューは、赤米、黒米、玄米をMIXしてつくったキノコとれんこんのリゾットと、カンパーニュにクリームチーズとレモンジンジャーを乗せて。わたしもれんこんの食感がシャクシャクいい感じのあったかリゾットを美味しくいただきました^^

キノコとれんこんのリゾット

今回、美味しいフードとドリンクを作ってくれた学生たち